Der Rote KampffliegerRed Baron抄)

 

フライング・エースと言ってまず初めに思いつくのは、

Manfred Arebrecht Freiherr von Richthofen

(マンフレート・アルブレヒト・フライへア・フォン・リヒトホーフェン)その人です。

イギリスを含む連合国軍の敵であるドイツ航空部隊の

恐るべき人物であったと言っても過言ではないでしょう。

そんな第一次世界大戦中最高の80機と言う撃墜数を誇るこのリヒトホーフェン男爵は、

自身のフォッカーDr.Tの機体を深紅に塗り上げたことから

Der Rote Kampfflieger(独)、le petit rouge(仏)、

Red Baron(英)と呼ばれるようになった人物です。

 

リヒトホーフェンの人物像については色々と説があります。

ドイツ軍にとってはまさに“大空の英雄”として華々しく宣伝されていたのですが、

しかし一方の連合軍側にしてみれば“吸血鬼”、“深紅の悪魔機”と呼ばれていた人物でした。

そんな理由で彼の人物像も、敵と味方でずいぶんと異なっています。

その英雄的美談が先走り正確なところはわかりませんが、

色々な文献で書かれているところによると、背は高かった、空中戦の天才、

ハンサム、中肉中背、ケンカ好き、撃墜して捕虜となった敵のパイロットも手厚くもてなした、

撃墜した敵機の残骸をコレクションしていたなどなど。

そして、機体をわざと目立つ赤で塗ったのは、単なる目立ちたがりやであったからとか、

自分を狙うように仕向ける為などと、色々な言われ方をされています。

 

【マンフレート・フォン・リヒトホーフェン年表】

 

1892年5月2日:ブレスラウ(現在のブロツワフ・ポーランドのオーデル川流域)

にて、父アルブレヒト、母クニグンデの間にプロシア貴族の長男として生まれる。

1903年:11歳でワールシュタットの軍隊学校に入学。

1911年4月:ウラン第一槍騎兵隊に入隊。

1912年:Leutnantに昇進。

1915年5月:航空科へ移る。

1915年10月10日:初のソロ飛行を行うが、着地に失敗機体を破損。

1916年3月:「戦闘航空の父」として高名なオズワルド・ベルケ率いる

第二戦闘中隊(ヤシュタ2)に配属される。

最初の搭乗機であるアルバトロスDUと出会う。

4月24日:彼の初めてのスコアとしてニューポールを撃墜。

しかし、気体はフランス戦線の向こうに落ちたので公式スコアにならず。

1916年9月1日:師であるオズワルド・ベルケに呼ばれ西部戦線へ参戦。

9月17日:初の公式スコアを記録。

1916年10月:師ベルケが戦闘中に部下の飛行機と接触事故により死去。

彼の死の際に、リヒトホーフェンはこう言葉を残している

「私はただの戦う戦闘機乗りだ。しかし、ベルケは英雄であった。」

1916年11月23日:RFC第23飛行隊長のエース、レイノー・G・ホーカー少佐と

45分にもわたる一騎打ちの死闘の末、撃墜。

この戦いは伝説のドッグ・ファイトとして語り継がれている。

1917年1月12日:時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世より、

プール・ル・メリート(ブルー・マックス)を受勲。

同時に第11戦闘機中隊(Jarta11)(※)の指揮官へと昇進する。

この時、自身のフォッカーDr.1の機体を赤く塗ったことにより、

リヒトホーフェンは、Der Rote Kampfflieger(独)、

le petit rouge(仏)、Red Baron(英)と呼ばれるようになった。

 

※第11戦闘機中隊(Jarta11)アルバトロスD−Uの編隊。

機体を派手に塗装したことから、

別名“リヒトホーフェン・サーカス”と呼ばれていた。

 

19174月:“Bloody April”(血の4月)と呼ばれた、この時期がドイツ航空部隊

そしてリヒトホーフェンにとっての最盛期であった。  

ドイツ航空部隊により、イギリスはこの4月だけで912人のパイロット

とオブサーバーを失い、リヒトホーフェンはこの時期だけで

21のスコアを上げている。

1917年5月1日:リヒトホーフェンは皇帝ヴィルヘルム2世によばれ、

実弟であるロタール・フォン・リヒトホーフェンに

指揮を任せ最前線を離れる。国家の宣伝活動のため

ヴィルヘルム皇帝と会見した後、

同年6月の初めまで故郷に帰り休暇を過ごす。

1917年6月24日:Jagdgeschwader1(Fighter Wing略してJG1が結成されると、

         その司令官に任命される。このことにより、後にJG1は初代司令官であり、

第一次世界大戦最高の撃墜王であったリヒトホーフェンへの敬意を表明して、

Jagdgeschwader Frieherr von Richthofen”と改名される。

1917年7月:戦闘中、頭を撃たれ撃墜される。この時の怪我により、

リヒトホーフェンは死ぬまでひどい頭痛に苦しむようになる。

1917年8月:フォッカー社の最新機、フォッカーDr.Tと出会う。

19181月:ロシアとの講和のための外交団に参加
    3月:部隊に復帰
 4月20日 通算80機撃墜

1918年4月21日:ソンム上空にてイギリス第209飛行中隊の

アーサー・ブラウン大尉に撃墜され戦死。
(地上のオーストラリア兵の対空砲火による撃墜説もある)

最終スコア数80機。

        フランスにて連合国軍によって手厚く埋葬されるが、

その後遺体は本国へ帰還。享年24歳。

 

1918年に撃墜され戦死した際には、イギリスやフランスなどの

連合国軍のパイロットがソンム上空から花束と弔辞を投下したり、

各国の新聞に戦死を伝える記事が載ったりと、その人気ぶりはドイツだけにとどまらないという人物でした。

おそらく、この第一次世界大戦という悲惨な状況下で、

リヒトホーフェンのような英雄的人物は、マスコミの宣伝活動や

長く続く戦争の士気を高める為にも必要な存在でありましたが、

しかし、やはり彼も戦争の被害者の一人であったと私は思います。

そして、後で調べてみてリヒトホーフェンの妹である、

フリーダ・フォン・リヒトホーフェンは、イギリスの作家D・H・ローレンスの妻であることが分かりました。

“レッド・バロン”ことリヒトホーフェンは、大空の英雄であったのか、はたまた紅い悪魔だったのか。

リヒトホーフェンが皇帝ヴィルヘルム二世と会見した際、

ドイツ陸軍の参謀総長エーリッヒ・ルーデンドルフ大将は、

レッド・バロンについてこう言っています。

 

「リヒトホーフェン大尉は陸軍三個師団に相当する」と。(※)

 

※一個師団は約12,000人余り。

 

 

 

 

 

 

 

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