大空の騎士

 

1.フライング・エース(撃墜王)

 

第一次世界大戦において戦闘機の開発が本格化されてくるにつれて、

空中戦闘もより激しさを増すようになりました。

そんな中で、多くの戦闘機パイロットが大空の英雄として生み出されるようになりました。

10機以上(アメリカでは5機以上)の敵機を撃墜したパイロットに送られる称号、

それが「フライング・エース」です。

この頃の空中戦は、非常に小回りの利く機体で、

一対一で上へ下へのドッグ・ファイトを繰り広げられることが多く、

まさに“大空の騎士”というイメージがありました。

そして、撃墜した敵に花束を捧げたり、傷ついた敵機を見逃したりなどという美談も多く、

「エース」と言う言葉が憧れを持って語られる事が多かったのはこのイメージが強かったことからでしょう。

第一次世界大戦を代表するエース・パイロットといえば、

終戦時でドイツの男爵マンフレート・フォン・リヒトホーフェン騎兵大尉(80)、

フランスのルネ・ポール・フォンク大尉(75)、イギリスのエドワード・マノック少佐(73)、

W・A・ビショップ少佐(72)そして、第一次世界大戦中ただ一人の日本人エース、滋野清武陸軍中尉(5)がいます。(※)

そして、この頃のパイロットは、貴族、軍人もしくは上流階級の、

ある程度経済的に余裕のある家柄の出身が多かったのです。

それと言うのは戦争前、飛行機を操縦するというのは、乗馬や狩りと同じく道楽の一つのようなもので、

従って航空機の操縦知識を持つ人々はごく限られていたからです。

それなので、その飛行機がまさか戦争で兵器として使われるとは思ってもみない事でした。

そして、他の兵士より昇進が早かったのもパイロットが特殊技能者として

高く評価されていたからであったと言うことです。

第一次大戦期、エース・パイロットが多数輩出された背景には、

機体が貧弱な為旋回機能の大半はパイロットの力量によるもので、

また初期の頃にはまだパラシュートが実用化されていなかったため、

撃墜されればほぼ確実に死亡しました。

そして、ベテランパイロットに新人パイロットが立ち向かうことはほぼ不可能であり、

新人が熟練するまで生き残る事は難しく、そのため熟練パイロットが活躍したと言う背景もあったということです。

 

2.スコアとプール・ル・メリート(ブルー・マックス)

 

 勲章を得てエース・パイロットと認められるのに必要不可欠なのは、撃墜数(スコア)です。

このスコアの認定基準はとても厳しく、敵機の残骸と第三者の目撃証言が必要でした。

勲章も大戦初期の頃は比較的もらい易かったそうなのですが、

戦争が長期化し、大戦末期になってくると、30機撃墜してももらえなかった人もいたそうです。

ただしイギリスでは個人よりも組織の戦果が重視され、エース方式は公式には採用されていません。

最初にこのエース方式が採用されたのがフランスで、その後ドイツ、イタリアなどを中心に各国に広まります。

特にフランス、ドイツはエースの顕彰に熱心で、

ドイツでは通称“ブルー・マックス”、“ブラウエ・フリッツ”と呼ばれる

戦功勲章「プール・ル・メリート勲章」ガ与えられ、

フランスでは「レジオン・ド・ヌール勲章」の約8割がこれらエースに与えられます。

 ちなみに第一次世界大戦頃の勲章の今の換算価値について言うと、

イギリスで最高位の軍事勲章であるヴィクトリア十字勲章は、

勲譜つきのものがオークションで8万ポンドから10万ポンド。

この授章の理由は「敵前における、もっとも顕著な勇気、

大胆なまたは卓越した勇気または義務にたいする極端な献身」とされました。

この勲章は後方の参謀や将軍には決して授与されず、最前線で戦ったものにしか授与されない、

おそらく大国のなかで最も受勲が難しい勲章の一つであるといえます。

エースについて言うと、レイノー・G・ホーカー少佐や、エドワード・マノック少尉が戦死後に授与されており、

第一次世界大戦中わずか633名にしか与えられておらず、そのうち187名は死後の授与となっています。

そして、第一次大戦期の鉄十字勲章は、勲章単品で250ドル。

それに箱、勲譜、リボンが付けば2500ドル以上の価値になると言いますが、

これは本物か疑う必要があり、さらに刻名、慣用的に使用されているのが普通なので、

リボンがつくだけで450ドルくらいだそうです。

“ブルー・マックス”について言うと、オークションにかけられたことはあるみたいなのですが、

いくらの値がついたのかまでは書かれておりませんでした。

そんなことで「エース」と言う言葉には、憧れというか、羨望の思いもあったことでしょう。

しかし、「スコア」と言う言葉は、奪った命を単なる数字で表してしまう

非情さをも持ち合わせていることは確かなことです。

 

3.空中戦(ドッグ・ファイト)

 

空中での航空機同士の戦闘といったら、まず思いつくのはこの“ドッグ・ファイト”であると思います。

ちょうど二匹の犬が激しく噛み合ってケンカするのに似ていることから生まれた言葉で、

戦闘機が登場する映画や物語には、必ずと言って良いほど出てくる花形シーンでもあり、

欠かすことの出来ないクライマックスシーンの一つになります。

しかし、現在ではレーダーなどの発達により、敵機を遠くからでも発見することが可能になり、

実際に接近戦ドッグ・ファイトに陥るケースはまれで、

このような事態は最悪のケースか戦況が明らかに不利であると考えても良いでしょう。

空中戦闘が本格的に行われるようになった第一次大戦初め、

射手と操縦士との二人乗りで機銃を撃った飛行機も、一人乗り(単座)で身軽な戦闘機が登場すると、

有利な体制に入る曲芸飛行が編み出されるようになりました。

その代表的なテクニックが、“ドイツ航空戦闘の父”と呼ばれる

マックス・インメルマン中尉が開発した“インメルマン・ターン”(※)がその一つです。

 

※敵機に後ろから攻撃された場合、右へひねりつつ

空中で一回転して敵機の後ろを取るという空中戦法。

 

他にも曲芸飛行の技は、宙返り、錐もみ、急螺旋降下、横滑りなど。

当初戦闘機はこのような技を駆使して一騎打ちをしていましたが、

空中でてんでバラバラに戦い始めると、敵はおろか味方同士で空中衝突する危険性があったので、

編隊を組んで飛ぶようになりました。

この編隊にも、攻撃や天候、敵の数によって色々な陣形態があり、

その中でも代表的なのが、少数の編隊が敵の大多数の編隊に捕まった場合に、

ラフベリ・ショウと呼ばれる円陣防衛方式が採用されました。(※)

 

※円陣を組んで同じ方向にローテーションしながら味方を後方から守る方法。

 

そして、短時間で勝敗を決する為にはこれらの曲芸技に加え、

短時間に攻撃可能な機関銃による銃撃で勝敗を決していました。

戦いが長時間になると帰りの燃料がなくなる危険や耐久性の問題があったので、

空中戦は大体長くても10分程度で勝敗を決するというものでしたが、

RFCのレイノー・G・ホーカー少佐とリヒトホーフェンが45分と言う

長時間にわたって一対一の戦いを繰り広げたと言うこともあります。

なお、この空中戦は伝説のドッグ・ファイトとして今なお語り継がれていると言うことです。

 

 

 

 

 

 

 ZURÜCK

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送