第一次世界大戦(WWT)

 

1.第一次世界大戦にいたる道

 

(1)帝国主義

 

 産業革命の進行によって成立した産業資本主義は、

やがて第二次産業革命に伴い独占資本主義に変質し、欧米列強諸国は帝国主義時代に突入していった。

帝国主義時代の欧米列強諸国は、資本の輸出(投下)先を確保するため積極的な世界政策を展開し、

アフリカ、中国、インド、太平洋地域などの植民地の分割が進められていきました。

1870年〜71年の普仏戦争後、ドイツの宰相ビスマルクはフランスの対独復讐をおそれ、

フランスの孤立化とロシアとの提携強化に努めた。

この国際関係を「ビスマルク体制」と言い、

三帝同盟・独墺同盟・独露再保証条約・対英親善関係などは、

フランスの孤立化を進めるものでした。そして、ビスマルク体制が破綻した後、

ドイツ資本主義の急速な発展は、市場と資本の投下先をバルカンに求めました。

その結果、バルカンの現状維持とロシアとの提携を柱とするビスマルク外交は、

資本家、軍部の利益と衝突し、破綻しました。

その後、露仏同盟の成立により、ヨーロッパは三勢力(露仏同盟、三国同盟、日英同盟)の鼎立する時代を迎えました。

独・英それぞれの世界政策(3B政策と3C政策)は、中近東で対立を深め、

独・仏はモロッコの支配をめぐって衝突しました。

一方、オーストリアとロシアの対外進出は積極的で、

バルカンでパン=ゲルマン主義とパン=スラヴ主義の対立が起こりました。

 

(2)バルカン問題

 

 長くオスマン=トルコ帝国の支配下にあったバルカン地域は、

ヨーロッパ、アジア、アフリカを結ぶ交通の要衝で、多数の民族、宗教のるつぼであり、

古来よりたびたび紛争が起きた地域でしたが、オスマン帝国が弱体化すると、

バルカン半島内のスラブ民族やゲルマン民族の民族自決運動が勢いを増しました。

そして、1908年のオスマン帝国内での青年トルコ革命に乗じて、まずはブルガリアが独立を果たし、

続いて、19世紀初頭のギリシャ独立戦争を契機に激しい民族運動が展開されていました。

そこにアジアへ進出しようとするヨーロッパ列強の利害が絡んで極めて複雑な国際状況が生まれていましたが、

20世紀に入るとこの状況はさらに深刻となりました。

オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合(1908)は、

大セルビア主義をもって両地方の支配を企てるセルビアとの間に激しい対立を生み、

そこにパン=ゲルマン主義・パン=スラブ主義をそれぞれ掲げるドイツ・ロシアのバルカン政策、

さらにはドイツの3B政策・イギリスの3C政策といった世界政策が大きく影を落とし、

バルカン地域は帝国主義列強の政策が衝突する、まさに「ヨーロッパの火薬庫」の様相を呈すこととなったのです。

 

(3)3C政策と3B政策

 

 19世紀末、ドイツではフランス孤立化を進めていたビスマルクが宰相を辞任すると、

ヴィルヘルム二世は一転してイギリスを意識するようになる。

イギリスのカイロ・ケープタウン・カルカッタを結ぶイギリスの植民地政策“3C政策”に対抗して、

オスマン帝国からバグダット鉄道の敷設権を得て、

ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダットを結ぶ“3B政策”を推進した。

また、艦隊法を整備し、海軍を増強し、

ユーフラテス川河口のバスラの築港権を獲得するなどして、イギリスの制海力にも対抗した。

 

(4)三国協商、三国同盟

 

日露戦争を機に、イギリスはロシアの中国進出を阻止する為に

「栄光ある孤立」を捨てて、1902年に日英同盟を結んだ。

さらにフランスとの関係改善もはかり、1904年に英仏協商を結び、

加えてドイツの西アジア進出阻止をはかり、1907年に英露協商を結び、

こうしてイギリス・フランス・ロシアの間に三国協が成立し、

1882年以来フランスの孤立化を目的としてドイツ・イタリア・オーストリアで三国同盟が結ばれた。

しかし、後に三国同盟の一員だったイタリアは、

オーストリアが「未回収のイタリア」併合を拒否したため、

同盟を破棄して1915年に三国協商(連合国)側に立って参戦した。

 

2.発端(サラエヴォ事件)

 

1914年6月28日。ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエヴォで、

軍事訓練を視察中のオーストリア皇太子フランツ=フェルジナンド夫婦が

セルビアの愛国青年ガブリロ=プリンチップに暗殺された事をきっかけに、

7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦。

これに対してロシアがセルビアを援助するために軍隊の動員令を出すと

ドイツもロシア・フランスに宣戦し、ついに第一次世界大戦が勃発しました。

この事件以前の推移は、上にまとめたように、

1882年三国同盟(独・伊・墺)、1907年三国協商(英・仏・露)、1912年第一次バルカン戦争、

1913年第二次バルカン戦争と言うそれまでの一連の経緯を経て起きたものでした。

そして、第一次世界大戦の発端となった原因は他にも、

バルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの対立、アルザス・ロレーヌをめぐるドイツ、フランスの対立、

イギリス、ドイツの建艦競争など。

日本を含めた27カ国の連合軍とドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国が戦いを繰り広げ、

ここから戦争と革命の19世紀が始まったのです。

 

2.第一次世界大戦の特徴

 

第一次世界大戦の戦場はほぼヨーロッパの、特に北フランスとロシア西部、

バルカン半島に限られており、決して広範囲にわたるものではありませんでした。

しかし問題は戦場となった地域ではなく、この大戦がヨーロッパ以外の

世界に大きな影響を与えたと言うことで歴史の大事件となったのです。

この第一次世界大戦を語る上で、特筆すべき三つの要素があります。

一つめは、これまで知られていなかった最新兵器の使用。

二つめは、戦場に限定されていた戦争から国力を総動員しての総力戦へと変わったこと。

そして三つめは、ポスターやチラシ、マスコミによる宣伝戦争の高揚です。

これらの要因が加わり、それまでの戦争形態から

国際的な近代戦へと変容したのがこの大戦の大きな特徴の一つです。

そして戦いも、今までは軍関係者や貴族や兵士によるものであったのに対し、

塹壕戦では将兵の区別がなくなり、将校の無力化などが現れ、

爆撃機による都市への空襲、毒ガスの使用など、

それまでの戦争に対する人々の考えが全く変わってしまったと言う事から、

この第一次世界大戦という歴史的大事件は、大規模な国際戦争になったことに加え、

戦争の新たな局面をうみだし、後の第二次世界大戦を上回る出来事であったと言えます。

 

(1)化学の戦争

 

19世紀には、産業革命以来自然科学及びその応用技術が大きく進歩・革新され、

人々の生活のみならず、意識や世界観さえも変えていったのです。

そして、第一次世界大戦によって戦闘機、爆撃機などの航空機を初めとして、

長距離砲、機関銃、戦車、毒ガス、潜水艦などさまざまな兵器の開発が急速に発達していきました。

そんなことで第一次世界大戦は、別名“化学の戦争”と呼ばれています。

兵力だけではなく、こうした新型兵器を開発し大量生産することにより、

科学力、工業力が戦争の勝敗を決めたことになったのです。

これは逆にいうと、兵士の勇敢さよりも火力や軍装備の

物質的優劣が勝敗を決するようになっていくと言うことであり、

言うなれば戦場が化学実験の場と化していたような状態でした。

 

(2)消耗戦

 

 大戦勃発により、それまでの工業や科学技術が向上することに伴い、

軍隊も武器も消耗品として、どれだけたくさん生産し消費するかで戦いの勝ち負けが決まると考え、

各国とも国力を総動員しての総力戦の様相を呈しました。

その良い例が今回の航空機で、次から次へと最新兵器を投入することにより

各国とも短期決戦をもくろんでいましたが、

しかし反対にこの事が戦争を長期化する結果となり、

非戦闘員までも戦闘に巻き込まれる悲惨な事態へと発展していったのです。

 

(3)塹壕戦

 

「塹壕戦」とは、敵の攻撃を防ぎ避けるために、

歩兵の守備する位置に体が隠れる深さに堀のように地面を掘り、

その中で軍勢を待ち構えて一斉射撃すると言う第一次大戦の中で戦法です。

塹壕内部の動きや、遠くからはそこに塹壕があることが見えないので、

両陣営ともに膠着状態に陥ることがあり、これによって塹壕戦では将兵の区別がなくなり、

将校の無力化などが現れてきました。

加えて衛生状態も悪くなり、兵隊の士気を低下させるだけではなく、

膠着状態を打破する為に毒ガスや戦車を持って必要以上の攻撃を加えるなど、

塹壕戦によって想像を越える惨憺たる殺戮が展開されていました。

 

(4)長期戦

 

大戦当初、各国ともに短期決戦を目論んでいましたが、

塹壕戦や最新兵器の投入、国家を挙げての総力戦となったため、

反対に長期化する結果となりました。

そして、一方では戦争が長期化することにより、女性の戦争協力が不可欠となり、

このことが大戦後の女性参政権獲得など、女性の社会的地位の向上につながっていったのです。

 

 

(5)秘密外交の展開

 

第一次世界大戦中、連合国軍側も同盟国側も互いに敵側の同盟関係を

解体あるいは限定化する戦略をとりました。

イギリスは1915年にアラブ民族の指導者であるフサインとの間に、

戦後のアラブ独立を条件にオスマン帝国への反乱を約束した“フサイン=マクマホン協定”を結び、

また翌年には、イギリス・フランス・ロシアの間で

オスマン帝国領内での勢力範囲を定めた“サイクス=ピコ同盟”が締結されました。

この協定は先のアラブ独立の約束を無視するものであり、

のちにソヴィエト政府(トロツキー)が暴露すると、アラブ人は激怒した。

さらにイギリスは1917年にユダヤ資本の協力を得るため、

ユダヤ人のパレスティナでの建国を認める“バルフォア宣言”を出すが、

これもアラブ独立とは矛盾したものでした。

このように秘密外交で結ばれた矛盾する協定が、

その後続くパレスティナ問題を引き起こすこととなったのです。

 

5.日本の参戦

 

 日本の第一次世界大戦参戦は1914823日の事で、

日英同盟を理由にドイツに宣戦。

中国でのドイツの租借地である州湾、青島を攻撃しました。

しかし、これは欧州列強諸国が極東に力を注ぎ込めない隙に、

一挙に日本の勢力を拡大しようと言う思惑があったのです。

そして、中国に対し屈辱的な“二十一ヵ条の要求”を出し、

その後の中国領土支配の礎を築いたのでした。

 

6.アメリカの参戦

 

 アメリカが第一次世界大戦に参戦したのは、大戦末期の191746日の事です。

参戦のきっかけとなったのは、ドイツの無制限潜水艦作戦により

アメリカ船舶が撃沈されたことを理由にアメリカがドイツに宣戦しました。

これにより、連合国側に無傷の巨大な力が加わったため同盟国側の戦局は一挙に不利になり、

相次ぐ同盟国の降伏と頼みの綱であるロシア国内の混乱などにより、一気に終戦へと向かう結果となりました。

航空機について言うと、今でこそ航空機大国として確固たる地位を築いたアメリカも、

第一次世界大戦中は航空機開発後進国でした。と言うのも、

アメリカが第一次世界大戦に参入してきたのが世界大戦も末期に近い頃で、

それまでの航空機については輸入されたものかコピーをしたものが主でした。

それまでも義勇軍として少数のアメリカ人パイロットがフランスなどの部隊にいましたが、

この参戦をきっかけとして、軍用機の生産が本格的になり、遠征部隊が結成されるなどして、

今日の軍事大国アメリカの基礎を築いたのもこの頃からでした。

 

7.反戦の動き

 

 各国の対立が激化する中、1899年ロシアのニコライ二世の提唱で

第一回万国平和会議が開かれるなどの反戦の動きもみられました。

第2インターナショナルも1912年バーゼルでの臨時大会で戦争防止を誓ったのですが、

各国の社会主義者が帝国主義を容認したため、第2インターナショナルは事実上崩壊してしまいました。

さらに、トルストイやロマン・ロランら文化人の反戦運動や、

国際赤十字社の活動も展開されましたが、戦争防止には至らなかったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

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