航空史(第一次世界大戦前)

 

1.大空への挑戦BC.〜17世紀)

 

ギリシャ神話のイカロスの時代から、人は古来より空を鳥のように自由に飛ぶことに憧れていた。

一番初めに人間がいつどうやって空を飛んだのか伝説まで入れるとその詳しい記録はありませんが、

大空を飛ぼうとする人間の実験は紀元前より行われており、

一番古い記録によれば、紀元前2200年頃中国の皇帝舜(22592208BC?)が

鳥の原理に基づく装置で飛び、また司馬遷によれば、

塔の上から大きな葦の帽子二つを広げてパラシュートのように降下して脱出したと伝えられています。

 

実際に飛行に結びついたのは、これらの“タワージャンパー”たちではなく、

中国での凧揚げや火薬によるロケット爆弾で、この二つはともに軍事技術として開発されました。

そして、竹とんぼを応用したヘリコプターらしきもの、グライダー、

熱の上昇気流を利用した原始的な熱気球なども多く発明されたそうです。

イギリスのマームスベリー僧院の「飛び僧上」も有名な話です。

それからイタリアの芸術家であり、科学者でもあったレオナルド・ダ・ヴィンチの

“螺旋翼を持つヘリコプター”のデッサンなど、

飛行に対する人々の思想は古くから多く存在し、実験も数々行われてきたようです。

 

2.初めての大空へ18世紀〜19世紀初頭)

 

1783年フランスのモンゴルフィエ兄弟により熱気球が制作され、人類の初飛行がなされました。

その後も水素を利用した気球などが開発され、女性を含めた多くの気球乗りが誕生しました。

それからプロペラによる動力推進器を取り付けたものや、

ジェット推進機が取り付けられた気球なども開発され、次代の飛行船へとつながってゆくこととなりました。

しかし、気球や飛行船は推進力が弱く、何より形が大きい為敵から発見されやすく、

火災事故が後を絶たなかったので兵器として使用されるには多くの弱点を抱えていました。

 

3.ライト兄弟とフライヤー号19世紀初頭〜1903年)

 

 19031217日。アメリカのノースカロライナ州キティホークのキル・デヴィル・ヒルにて、

オーヴィル&ウィルバー・ライト兄弟は、彼らの設計したフライヤーT複葉機を使用し、

モノレール軌道から発進し、完全な飛行を行った後ソリで着地した。

これが動力つき飛行機による、持続的な、操縦された飛行の初の成功でした。

この時滞空時間は59秒間で、約260mの飛行距離を記録しました。

このフライヤーT号機は、すでに複葉形式という完成されたスタイルを持っていた点で高く評価されています。

 

4.複葉機全盛時代へ1903〜1914年)

 

 ライト兄弟の飛行実験成功は、他の航空家たち、特に航空先進国であった

ヨーロッパ大陸の人々に衝撃を与えました。

その一人であるフランスの飛行家ルイ・ブレリオは、

1909年、前翼(カナール)式配置の飛行機を使って実験を行い、

単葉機「ブレリオ11号」に乗ってカレーを飛び立ち、

30分後ドーヴァー断崖の上に降り立った。

この成功に軍関係者は、航空機が恐るべき兵器となる可能性を見出し、

このブレリオ号を買い入れ、最初のフランス空軍飛行部隊の指揮をブレリオに命じました。

そして、彼は後に第一次世界大戦のギヌメールをはじめとする

空の英雄達のためにスパッド号を制作することとなります。

こうして、タワージャンプ→凧・花火・グライダー→熱気球→飛行船→飛行機と、

進歩を遂げた航空技術も、来るべき世界大戦への道を歩むこととなったのです。

 

 

第一次世界大戦中の航空機の発達について

 

1.第一次世界大戦中の戦闘機

 

1903年、ライト兄弟のフライヤー号で、人類最初の有人飛行を成功させ、

それから9年後の1914年に第一次世界大戦がはじまり、

それから1918年に終戦を迎えるたった4年間の間に、

航空機はその機能と性能とを、驚異的なスピードで進歩を遂げました。

世界で始めて航空機が軍事利用されたのは、1911年の伊土(リビア)戦争で

イタリア軍のニューポール機が偵察用に使われたということです。

そしてこの時手榴弾を投下したことから、世界初の爆撃と言ってもいいでしょう。

そして、この頃より航空機の生産・開発も企業化し、大量生産、新機種の開発が可能になりました。

第一次世界大戦を代表するおもな航空機メーカーは、フォッカー社、アルバトロス社、

ソッピース社、フィアット社、スパッド社など。

このうち休戦後、自動車会社に移行したメーカーや、次の第二次世界大戦の航空機製作に携わった会社、

そして特にドイツではヴェルサイユ条約の軍縮により、解体を余儀なくされた会社などもあります。 

そして、プロペラも推進式から牽引式(※)へと変わり、

 

※「推進式」・・・プロペラが機体の後部についているもの。初期の型に多い。

「牽引式」・・・プロペラが機体の前部についているもの。推進式に比べて

速度が断然速くなる。現在のおおかたのプロペラ機は牽引式。

 

エンジンの性能も格段に上がり、航空機が戦いに与える影響も大きく変化しました。

それから、第一次世界大戦中の航空技術史上における特筆すべき点は、

複葉機全盛のさなか、ドイツにおいて現代航空機の基礎とも言うべきモノコック構造、

アルミニウム合金(ジュラルミン)使用の全金属製機が開発、実用されていたことです。

 

さて、ここで第一次世界大戦を代表する、各国の名機をいくつかご紹介いたします。

 

ソッピース・キャメル(イギリス)

複葉単座機、19175月就役。

 

19175月の就役から、翌年1918年の大戦終結時までの

約一年半、イギリス航空隊戦闘機隊の双璧を成し、連合軍側勝利に大きく貢献した機種。

この短い期間中だけで下請け会社を動員しておよそ5,490機生産された。

胴体正面の機銃のふくらみの形から、キャメル(ラクダ)という

ニックネームが付けられましたが、その名前とは裏腹に速度、上昇力などに優れ、

特に「かみそりのよう」と表された舵の効きから、旋回機能に秀でており、

連合国軍を代表する主力戦闘機種の中でも戦闘戦機能がピカイチだった。

しかし反面、癖の強い操縦性ゆえに初心者の事故も相当多かったようです。

小型軽快な機体に重いハイパワーエンジンを搭載したことにより、

エンジントルクの作用が強く旋回時の事故が多発したようなのですが、

しかし、その一方で多くのエースパイロットを輩出しました。

それなので、乗りこなすには相応の技術を必要とし、乗りこなせば高い戦闘機能が

与えられると言う、そこが名機と呼ばれるがゆえんのようです。

私的に連合国軍の戦闘機の中で一番のお気に入りの飛行機です。(※)

 

※チャールズ・M・シュルツ著『ぼくはフライング・エース』にて、

主人公のスヌーピーが空想の中で搭乗。レッド・バロンとも対決している。

 

 

フォッカーDr.T(ドイツ)

三葉単座機、1917年就役

 

第一次大戦の戦闘機といえば、まず思い浮かぶのがこのフォッカーDr.1。

この三枚の翼の特異でも有り、WWTを代表する名機でもあるこの戦闘機は、

撃墜王リヒトホーフェン、フォスなどの伝説的な英雄の愛機として知られています。

この機体は、三葉型式のおかげで運動性が軽快で上昇力にも優れ、

格闘戦に有利な機体だったようです。その反面、速度性能が低く、操縦も難しくて、

平均的技量のパイロットが誰でも乗りこなせると言う機体ではなかったといいます。

 

※ちなみに、この三枚翼のフォッカーDr.Tは、

現在でも復刻版がたびたび航空ショーに登場したりする。

 

Dr.T開発の発端は、イギリスのソッピース・トリプレーン三葉戦闘機への

対抗機種として作られ、その際立った上昇力と運動性に衝撃を受けたドイツ航空隊が、

同年6月に14のメーカーに対して、大至急三葉型式戦闘機の試作を命じたことでした。
 三葉機の利点は他にも、主翼の上、中、下を結ぶ索が複葉機より細いため、

操縦者の視界をさえぎる事が少ない。翼面積が広く、浮力が十分つくので、上昇力が向上する。

そのため、速度とともに上昇力が重要となる空中戦にもってこいの機体であったと言えます。

そして、このDr.1をはじめとしてこの当時よく使われる、

空冷回転星型エンジンというのは、プロペラとともにエンジンそのものも回転するメカのようなものでした。

ちなみに、接頭記号の“D”は「ドッペルデッカー」で複葉機、

E”は「アインデッカー」で単葉機、“Dr.”は「ドライデッカー」で三葉機です。

 

 

スパッド 13C1(フランス)

複葉単座機、1917年就役

 

ニューポール系が大戦前期のフランス航空隊主力戦闘機であったのに対し、

後半は戦争の拡大、激化により、需要が増大したため、

スパッド社の戦闘機が8,472機という膨大な数が生産された。

数からしても性能からしても、第一次世界大戦を通じて

連合軍の中でも最優秀な戦闘機のひとつである。

強力なイスパノスイザV8エンジンを搭載し、頑丈で高速な機体である。
その優秀な性能と頑丈さ、扱いやすさを買われて、

アメリカ、イギリス、ベルギー、イタリアなどでも使われている。
日本においても丙式一型として取り入れられている。

 

 

アルバトロスD−U(ドイツ)

複葉単座機、1916年就役

 

フォッカーと並び、アルバトロスは

大戦中期のドイツ主力機種で、かなりの数が量産されている。
前モデルのD1で不評だった視界の悪さを上翼の位置を下げることで改善したのが

D2で、この後のD3とともに英国の推進式戦闘機群を圧倒していった。
特徴的な円筒形の胴体は、量産機としては最初の木製モノコック構造である。

11戦闘機中隊(Jarta11)通称“リヒトホーフェン・サーカス”の

リヒトホーフェンの最初の搭乗機としても有名である。

 

ニューポール・17C1(フランス)

複葉単座機、1916年就役

 フランスを代表する、初期から中期の小型戦闘機。小型・軽快で数千機が生産された。
また、連合軍側で初めてプロペラ同調機構の機銃をそなえた機種でもある。
フォッカーEシリーズが連合軍の天敵であった時代に終わりを告げた強力な戦力であり、

アルバート・ボールやビリー・ビショップなどの撃墜王たちを生み出した。

 

 

ニューポール・11(フランス)

複葉単座機、1915年就役

 

ニューポール10をより小型に純然たる単座機として開発され、

小型だったことから「ベベ」(ベビー)という愛称をもっている。

下翼幅が上翼の半分しかない、いわゆる1葉半の典型的な機体で、

軽快だが機体強度はやや弱かった。まだこの段階では

プロペラ同調機銃がなかったので、上翼上に機銃を装備している。
だが、同時期のライバル、フォッカーE3あたりよりも機体性能は優っていたので

後に同調機銃を搭載するとフォッカーを駆逐することとなる。
また、独軍の気球や飛行船を迎撃するロケット弾搭載部隊も有名である。
ロシア、オランダ、スペインなどでライセンス生産され、ドイツ軍にもコピーされている。

1.航空機の役割

 

大戦初期頃、航空機の役割は各国機とも70〜80馬力のエンジンを搭載し、

120〜150km/hの速度で低空を飛ぶのが精一杯と言うこともあり、

偵察もしくは情報伝達の手段として用いられてきました。

当初敵方の様子を見るのには、当時気球が使われていましたが、

航空機の方がより迅速に移動でき、銃弾の届かない空から、

前線だけではなく敵地の奥まで偵察することが可能でした。

航空機がまだ偵察機として使用されていた頃、

航空機同士が戦うと言うことはめったにありませんでした。

それと言うのも、初期の航空機はおもに布や木やピアノ線で作られていたもので、

飛行機の作りそのものがまだ戦闘向きではなかったからです。(※)

 

オーストリアで開発され、ドイツで製造されたエトリッヒ・タウベ。

偵察用に作られた最初の戦闘機で、布と木とピアノ線で作られていた。

 

大戦当初は、敵機といえども空中で出会うと

お互いに挨拶したとも伝えられているが、

 敵に情報を持ち帰らせるのは好ましいことではなく、

武器を持って飛ぶようになった。

 

もし攻撃するような事があったとしても、

相手の翼にカギのついたロープを引っ掛けて落とすか、

石を投げるかピストルか銃で攻撃をするというようなものでした。

そして、そのうちに短期間での攻撃に優れた機関銃が搭載されるようになってきました。

当初は単葉複座式の航空機が主流で、前部に射撃手を乗せ、旋回式の機関銃で相手を撃っていたのですが、

この方式だと操縦士の視界が妨げられるうえ、自機のプロペラを破損せずに攻撃するのかが課題となります。

しかし、同調式機関銃(※)が開発されたことにより、操縦士が射撃手を兼ね複座式から単座式の戦闘機へと変容しました。

そして、2〜3トンの爆弾を積み数時間の航空時間を持つ大型爆撃機も開発されました。

 

※プロペラと機関銃の動きを同調させ、

プロペラの通り過ぎた後に弾丸が発射される。

 

2.空中戦の変容

 

大戦初期の頃は、お互いに大戦中のあくまで陸軍が主役で、

飛行機はあくまで脇役的存在でしたが、それが戦争の激化に伴い、

ジュラルミンなどの軽い金属が開発されてからは空中戦闘の手段として

機関銃などを搭載した戦闘機が開発されるようになってきました。

そして、時と共に航空機も、偵察→戦闘→空襲と言うように、社会的影響も変化させてきました。

 

3.飛行機と自動車とエンジンと

 

航空機の発達を語る上で、必然的に語られるのが自動車とエンジンの発達についてです。

この頃の大方の航空機種には、ロールス・ロイス、メルセデス、BMW、フィアットなど、

自動車会社が作ったエンジンが搭載されていました。

なので、航空機の発達とともに自動車とエンジンの開発もイコールであったことは確かです。

ライト兄弟は当初ガソリン・エンジンを改良した液冷のレシプロ・エンジンを使用していました。

その初期の頃のエンジン出力は70〜80馬力程度で、

動力をチェーン駆動でプロペラを回していたものでしたが、

1907年航空機用回転式空冷星型エンジンが開発されたことにより、

飛行機の馬力は飛躍的に上昇しました。

そして、大戦末期になってくると180〜220馬力まで出力が上がり、時速もまた格段に速くなりました。

 

4.飛行機の行方

 

数々の名機種を生み出したドイツ軍でしたが、敗戦と同時にヴェルサイユ条約を結ぶことにより、

軍縮、兵器開発の禁止、多額の賠償金を支払うことを命じられました。

その際、飛行機などを含めた兵器の数々も連合軍により接収されました。

その時、フォッカー社の最高にして最後の傑作機、フォッカーD[を連合国軍に引き渡す際、

航空部隊の面々がわざと着地を失敗させ大破させたと伝えられています。

その際にJG1の司令官であり、

後のナチス・ドイツ空軍宰相となるへルマン・ゲーリング中尉は、報告書でこうしたためています。

 

『一九一八年十一月十一日、休戦。JG1は悪天候をおかして

ダムシュタットへ飛行。霧。設立以来、JG1は敵機644機を撃墜。

敵との交戦による死者は、将校56名、下仕官パイロット6名に達す。

負傷者は将校52名、下仕官パイロット7名。

              ドイツ第一戦闘航空団(JG1)司令官

              ヘルマン・ゲーリング中尉』

 

こうして、第一次世界大戦のたった4年の間に、

大戦当初の2倍以上のエンジン・パワー、速度を出せるまでに発達し、

兵器としての一分野を確立した航空機でしたが、大戦終了と同時に敗戦国である

ドイツ、オーストリア・ハンガリーは軍用機開発自体が禁止されてしまった為に発展の流れが止まってしまいました。

一方戦勝国イギリス、フランスも、戦争による国家財政の疲弊によって

新型軍用機開発のペースは大幅にダウンし、大戦中のような急激なレベル・アップは望めなくなりました。

こうした状況の中、次第に頭角をあらわしてきたのがかつての航空先進国アメリカでした。

圧倒的な国力を反映して次々に新型機を生み出し、

1930年代に入ると陸・海軍航空兵力は質量ともに世界最強までになりました。

 

 

 

 

 

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