栄誉と挫折と

 

 

Flugkapitaen“機長”

 

アルプス越え飛行の成功からしばらくしての事、

ハンナの活躍に対しウーデットから「フルーク・カピテン(機長)」の称号が贈られる。

これは元々ルフトハンザ・ドイツ航空の一定の規定を満たしたパイロットに贈られる称号で、

ハンナに与えられたのは名誉称号(名誉資格)であり、

テスト・パイロットは勿論、女性として受賞するのは初めての事であった。

そして後に受賞するどんな賞よりもハンナが最も好んだ称号である。

彼の支持を得たハンナは、その後もウーデットの庇護により、

民間人の身分のでありながら空軍のテスト・パイロットを務める事となる。

その先駆けが19379月のこと、

新しい制動装置を備えた飛行機をテストするようウーデットに言われ、

レヒリンにある空軍の軍用機の試験場でテスト飛行を行った。

しかし、テスト飛行は問題なく進んだのだが、

ここでもまた以前の飛行学校の時と同じく、ずいぶん肩身の狭い思いをしたようだ。

 

さてここでまた話が少々外れるが、ウーデットをはじめナチス・ドイツ空軍には、

第一次世界大戦時にエース・パイロットとして活躍した者がたくさんいる。

その中でも、かの“レッド・バロン”ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェンのいた

戦闘航空部隊ヤシュタ11(通称リヒトホーフェン・サーカス)には、

ウーデットをはじめ、アドルフ・ヒトラーの右腕で腹心となる

空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングなどの要人も輩出している。

このような事から、先の大戦よりあまり時間が経っていないことに気付くだろう。

エルンスト・ウーデットと共に

 

 1935年にナチス・ドイツが再軍備を宣言してから、

航空技術開発は軍事目的が大幅に占め、

DFSの研究部の業務も以前の平和目的の範囲を超えて、

次第に軍事分野にまで広がってきた。

ハンナも軍用機のテスト・パイロットを務めるようになる。

 

世界初のヘリコプター飛行

 

19382月、ベルリンのドイツ会館でハンナはFW61ヘリコプターによる

屋内飛行のデモンストレーションを行った。これは世界的・歴史的な快挙である。

とりわけこのイベントにはナチス・ドイツの宣伝効果を狙ったものがあり、

ヘリコプターの飛行も技術力を世界に示すというような狙いがあった。

FW61ヘリコプターで屋内飛行

 

しかし、ショーやダンスと同じく見世物の一部のような形で行われ、

ハンナもこの飛行についてはあまり良い気分ではなかったようだ。

 そして、かの有名なアメリカの冒険飛行家チャールズ・A・リンドバーグも

ドイツの航空技術を視察する上でハンナのヘリコプターによるテスト飛行も見学している。

彼は本国へ帰ってからこの技術力の素晴らしさを説いたのだが、

それが逆にナチスの手先として人々から非難される結果となってしまった。

とは言え、これらの技術は戦後の航空技術にも大きな影響をもたらしているといえる。

 

アメリカでの航空ショーに出場する

 

 ヘリコプターでの飛行の成功もあり、アメリカでの航空ショーに出場する事となる。

習慣も生活様式も、ヨーロッパとはまるで違うアメリカに少々戸惑いを感じたようだ。

この

 

そして、彼女が再びこの地を訪れたのは敗戦後、捕虜として拘束された時の事となる。

 

 

 

 

 

 

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