あこがれの大空へ

 

 

故郷ヒルシュベルク

1912329日、シュレジェン(シレジア)地方

(現在のポーランド国境付近。当時はドイツ領であったが、第二次大戦後にポーランドに編入される)

のヒルシュベルクという、周りを山々に囲まれたチロルの自然豊かな小さいが古く伝統ある街に、

個人病院を営むかたわら芸術を愛し繊細で感傷的な眼科医の父親と、

チロル貴族の血を引くハンナにとって“人生最愛の人”である母親との間に長女として生まれた。

   

5歳の時のハンナ          演奏会を開くハンナと家族

 

そして、後に海軍少佐となる2歳年上の兄のクルトと妹のハイディ。

家族で演奏会を開くなど音楽一家でもあった。

 

   ハンナと母親           チェロを弾くハンナの父親

      

海軍少佐の兄クルト      妹のハイディ

 

このような豊かな環境の中でハンナは幼少時代を過ごした。

そんな事から、彼女の大空に対するあこがれと豊かな感性が育まれたに違いない。

 

 

学校生活

ハンナの学校時代は特に成績に問題はなく充実したものだったようだ。

しかし、イタズラ好きな性格であった為たびたび注意を受けていたようだ。

ある時、ネズミがいると教室で騒ぎを起こして授業を丸一時間つぶした事がある。(「ネズミ事件」と呼んでいる。)

それよりもハンナには父の誇り高さと母の限りない優しさが何よりも勝っていたに違いない。

そんな無邪気な彼女も13・4歳の時、自身の将来の事について真剣に考え始めた。

この頃はまだ女性は家庭に入り、育児をするということが何よりという考えが根強く残っていたのであるが、

使命感に燃えて医療活動に従事する眼科医の父親の影響からか、医師を目指そうと考える。

そして一方では敬虔なカトリックの母親の影響もあり、伝道師(宗教的真理・教義を広める事。その役割をする人)

の道も考える。そして次第に飛行機で飛ぶ伝道師になりたいと思うようになった。

後にベルリンにある医学校へ通う際、ハンナが両親宛に送った手紙には、

「将来アフリカで“フライング・ドクター”になる為に操縦免許を取る」と書いている。

彼女自身医師か飛行か本気で迷った挙句、自分が本当に好きな道を目指した事となる。

(むむむ?これはどこかで聞いたいきさつだな?)

ハンナの搭乗機を見る両親

 

 両親も初めはその願望が誤った方向へ向かないか心配をしていたのだが、

卒業試験まで飛行の事を一切口に出さないという約束で、

グライダー学校の練習に参加することを認めた。

こうして晴れて彼女はヒルシュベルクの近く、

グルーナウにある学校でのグライダー練習に参加することとなった。

 

初めての大空へ

 まず初めに当時のドイツの航空事情について説明を加えておくと、

先の大戦の敗北によりヴェルサイユ条約で、エンジン付き航空機の飛行が禁じられていたため、

空を飛べるものといえば上昇気流を利用して飛ぶグライダーなどに限られていた。

ちなみにハンナが動力付き航空機に乗ったのは、1935年の再軍備宣言が発せられてからの事となる。

ハンナのグライダー初飛行はスムースなものとは言いがたいものとなった。

無事に空に放たれたものの、悪い癖であるイタズラ心が湧き操縦桿を勝手に操作したため、

機外へ放り出されたうえ派手に着陸をして、教官から「三日間飛行禁止」を喰らった。

しかしここでめげる彼女ではなかったのだった。

謹慎中も自宅で飛行中のイメージトレーニングをし、他の者が飛行する所をしっかりと見、

再び飛行が許されてからは教官の言い付けをしっかりと守り、

ついに上級滑空試験を突破し、滞空時間の世界記録を作るまでとなる。

飛行学校校長で教官のヴォルフ・ヒルト

 

ある時、ハンナは雷雲の中を飛行した事があった。

荒れ狂う気流のなか生死の境を迷うが、己を奮い起こして無事に不時着した。

しかし、そこは運悪くチェコとの国境近くの立ち入り禁止地帯で、

無断で着陸した為にあやうくライセンスを取り消されそうになった。

だが、飛行学校長となった教官ヴォルフ・ヒルトのはからいのお陰で、

航空教官となり何とかライセンスの取り消しを免れることができた。

 

レーン競技会

 飛行学校で教官として滑空指導を勤めるようになったハンナは、

ドイツ・グライダー・スポーツの聖地、ヴァッサークッペで行われるレーン競技会に出場する。

折しも生徒を事故で無くしたばかりのハンナには、いささか緊張感があったのだと思う。

上手く上昇気流がつかめず、結果は最下位。賞品としてキッチンメーターと肉挽器をもらう。

(この賞品は本人曰く、「無謀な挑戦をした女の子へのからかいの意」らしい)

だが、この大会でのハンナの奮闘振りを見た“グライダー教授”ことゲオルギー教授から

自身の研究所の南アメリカへの研究旅行に参加しないかと話を持ちかけられる。

もちろん、ハンナは喜んでこれに承諾をした。

ところでもし、ハンナがこの大会でそこそこの成績を上げていたら、

あるいはもっと別の道を歩む事となっていたことであろうかと思う。

レーン競技会にて

 

 さて、その研究旅行には3000マルクという資金が要る。

教官とは言え、まして学生の身分である彼女にとってはすぐに作れない大金である。

そこで以前、雷雨の中を飛んで伝説を作った際にウィーンの映画会社から

「空のライバル」という航空映画の代役として出演の依頼が来ていたことを思い出した。

そこで彼女はすぐにこの出演依頼を承諾し、飛行シーンの代役として映画出演をした。

 

南アフリカへの研究旅行

 

かくして南米行きの資金を作った彼女は、ゲオルギー教授らとともに

南米の上昇気流の状況を調べる為の研究旅行に参加することとなった。

   

船上にて左がゲオルギー教授      ブラジルでの飛行

 

ここでもまたハンナは様々な興味深い体験をした。

その一つにサン・パウロでの研究飛行の際、上手く上昇気流がつかめず

やむを得ずフットボールの試合のまっ最中であるスタジアムへ不時着をしたこともある。

また、アルゼンチンでは長距離滑空を行い、

女性として初めてとなるシルヴァー功労章をもらった。

この研究旅行での活躍ぶりから、ハンナはゲオルギー教授じきじきの誘いにより、

彼が所長を務めるドイツ・グライダー研究所(DFS)に入る事となったのだった。

 

 

 

 

 

    HOME   NEXT

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送